黄衣の王

黄衣の王




  ……野獣ども其の跡に続き
  其の手を舐めん
  たちまちうみ滄溟より凶しきもの生まれいずる
  黄金の尖塔に海藻のからまりし忘却の土地あらわれ
  大地裂け 揺れ動く人の街の上には
  狂気のオーロラ極光うねらん
  かくして戯れに自ら創りしものを打ち砕き
  白痴なる<混沌> ほし地球を塵と吹き飛ばしけり

                                                     H.P.Lovecraft


 山野辺翔子がその知らせを聞いたのは、当事者である叔父の知人という人物からであった。
 その知人曰く、父方の叔父が死亡し、彼の遺産がいくばかりか翔子にも割り当てられるという事で、必要な書類を幾つか提示し、両親から2日遅れてその話を聞き、確認が取れてから翔子は遺産の受諾を了承したのだった。
 正直、翔子にとっては、その叔父とやらがどういった人物か、という事は知らなかったし、死亡といわれた時、「ああ、そういう人が自分にもいたのだな」程度にしか感じなかった。
 ただ、折角の遺産とやらを無視するほど疎遠ではなかった気がするので、それを売るにしろ、将来の資産にするにしろ、一目見るのも叔父の供養を兼ねて良いだろうと思った。ただそれだけだった。
 叔父の遺産は大きく分けると二つのタイプに分類されており、一つはこの世界が貨幣経済から成り立つ以上、何もせずとも金が入ってくるシステムの末席という、いかがわしくも笑えないシロモノ。もう一つは、(こちらが叔父の本命らしいが)叔父が趣味で集めていた収集品である。
 翔子としては、叔父の残した即物的な【力】が、あの、人の子に恋した月の精霊を世の諸々から守る役に立つことは確実である為、要らない収集品をいっしょに仕方なく引き受けたのだった。
 だから、収集品といっても、それが如何なる物かは彼女には興味が無く、大方趣味の悪い金色のガラクタの類だろうと決め付けていた。彼女の周りにも、その類を好む人物は多く、翔子にとっては可笑しい限りだった。
 しかし、そんな翔子の考えは遺産として渡されたモノの一つを見て大きく修正される事になった。
 恐らく、明治初期、あるいは幕末に立てられた独特の雰囲気を醸し出す洋館。そう、洋館という形容がこれほど似つかわしい建物が他には無いと言える館が翔子に与えられた遺産の一つ。正式には、遺産を収める外箱であった。
 歳月というものに磨かれ、静かな美しさと調和を手に入れた生ける美術品。それを取り囲む広大なブナ林。翔子は知らなかったが、その建物は、黒々としたブナ林を含めたその館は、彼女の一族でも高位の人間が住まう事を許される館であり、叔父の遺言以前に、彼女の一族が【山野辺翔子】の為に用意してきた場所であった。
 生前、叔父が最後まで其処に住んでいたのか、その館は妙に手入れが行き届いており、翔子が初めて足を踏み入れたときには、埃一つ床に落ちていなかった。
 翔子は、叔父の知人を名乗る人物から手渡された遺言書の通り、館に入ると真っ直ぐに書庫へと向かい、遺言にあった一冊の書物を探し当てた。
 【King Yellow】そう題された古い装丁の本。それこそ、彼女の叔父が【姪の山野辺翔子】に残した遺産の中核を成す代物であると翔子は聞いていた。
 広大な、ちょっとした図書館(少なくとも、翔子の住む鶴ヶ丘の)より広い面積と蔵書数を誇る書庫の中、たった一人の翔子はさしあたって、自分に残された遺産を【読んで】やろうかと考え、叔父が愛用していただろうマホガニーの机に分厚く重い【それ】を置いた。

 書を読み進めるうち、翔子は件の叔父という人物が如何なる人物だったかを朧ながらに思い出していた。
 叔父の思い出には、常に薄暗い書斎がつきまとっており、今にしてみればこの場所だったのかと思い当たる記憶もある。その叔父だが、幼い翔子の記憶にある姿はどれも叔父と言うには躊躇われるほど若く、そして威厳が備わっていた。
 彼の周りには、翔子の記憶に在る限りでは常に二匹の黒猫が控えており、叔父の足元に寝そべっている姿を覚えていた。幼い頃、妙に大きかったその黒猫を翔子は黒豹と信じていた記憶がある。その事を話すと叔父は、意味深な笑みを浮かべて翔子の頭を撫でてくれた事も思い出した。
 叔父は、自分と同じ色をした瞳を持ち、その冷たく輝く瞳が幼い頃の自分を映していた記憶。翔子は引き出される記憶の余韻を暫く楽しみながら、書のページを捲り続ける。
 明かりを取り入れる為に開けた鎧戸から降り注ぐ美しい黄金の陽光。それに洗われて書庫の空気すら輝きをその内に宿す。そんな時間の中に翔子は何時の間にか迷い込んでいた。
 静かで穏やかな時間。翔子が今まで味わったことの無い至福の時間。それらが潰えるまでの僅かな時間。ほんの数時間に過ぎないカダスとの会合。正当な【銀の鍵】の所有者でなく書の力で齎された一瞬に等しい時間の会合は、一陣の風によって鎧戸が音を立てて閉ざされた事で終わりを迎えた。
 失った明かりを取り戻すべく、翔子が鎧戸を開けると、外は既に日の光は無く、陰惨たる黒い森がやけに輝きを増した星空の下に広がっていた。それは、あの月の精霊が支配する、穏やかで優しい清楚な夜でなく、脆く、脆弱な均衡の上に辛うじて存在している薄氷の静けさ。表面を取り繕い、静かに、残酷に、冷静に、曇り一つ無く、敵対者を屠る為に作られた静謐。
 星たちの全てが互いの領土を拡張せんと権謀術策を展開し、己が存在を容易く賭けている哀れな姿を光り無き黒い森は自らの卑しさに気付かず、嘲笑っている。
 不意に湧き上がってきた想像に翔子は口元を歪ませ、軽く頭を振って妄想を取り払うと、再び鎧戸の外へ視線を向ける。そこは、既に星たちが光を失ったありきたりの夜空であり、黒い森からは彼らを嘲笑う声は聞こえなかった。
 音も無く、光も無く、在るべき命すら無い【黒い森】。そこは、所有する狂気と深淵を己が内に潜ませ、新たなる【書の主】に忠誠を沈黙で誓うのだった。
 降り注ぐ美しい月光をその身で弾き、鋭い硬質な輝きを纏う翔子の後ろ、無人のはずの書庫に配置された無数の書架の合間から1匹の巨大な黒豹が足音も無く優雅な足取りで現れ、静かに忠誠を誓う主の元へ歩み寄り、彼女の手をそっと舐めるのだった。