黄衣の王3



黄衣の王3



 この大地は母なる存在でなく、全ての命が支配権を競う実験場に過ぎない。
 命は生態系の頂点を競う。究極の生存能力を求めて………


 キリュウは穏やかな黄金の陽光に包まれてまどろんでいた。
 彼女の下に轢かれている膨大な枯葉は心地良い眠りを与え、木々の作り出す清浄な空気は大地の精霊万難地天に相応しい空間を作り上げる。人類が過去(そして未来も)手にした事の無い自然の恵みを具現化させた彼女だけの聖域。広大なブナの森で、彼女の力が及ぶ限りの範囲が理想の自然形態を構成している。
 大地の精霊であり、命の成長を司る彼女にとって、普段の七梨家の生活も良いが、こうした大地の豊穣な恵みに満ちた世界はやはり格別なのだった。かといって、別に普段の生活に異論がある訳で無く、何となく落ち着く、といった類の嗜好に過ぎないのだが……
 キリュウがこの森にいるのには訳があった。彼女の仕える主、七梨太助。その友人であり、キリュウとも友人である少女、山野辺翔子が叔父の別荘が空いているという話を持ち込み、それに賛成した(させられた?)主についてきたという事になる。
 当初こそ、この自然を使った試練を主に与え様と考えたキリュウであったが、久しく感じる大地の力にそんな気は薄れ、素晴らしい環境についつい午睡を貪る事になっていた。
 山野辺翔子の叔父という人物は大層な変わり者らしく、広大なブナの森を所有し、その中心にかなり大きな屋敷、それも洋館という類のそれを揩ソ、年に数度、この地に足を運ぶのだという。それも、その屋敷に秘蔵した書物を読む為だけに。
 キリュウとしては、その洋館が持つ幾つかの部分に興味を引くモノがあるのだが、一応泊めてもらっている身分と、山野辺翔子に迷惑を掛けまいという良心から試練はナシと自分を納得させていた。
 同行している宮内出雲という人物は、この森に違和感を憶えると言っていたが、キリュウには穏やかで心地良い森以外の何物でもない。水気を十分に含んだ苔。木の葉が堆肥となって積み重なり、幾星霜を重ねて作られた命の揺り篭たる大地。遍く命を育み、成長させてきた樹木たち。キリュウには親しみやすい者たちにこの森は溢れている。
 全ての命が大地へと回帰され、大地は命を新しく再生させる。大地による命の循環が正しく行われているこの森は、大地の精霊であるキリュウにとって居心地が良いのは当然と言えば当然かもしれない。
「ああ、主殿か………」
 だから、キリュウは彼女を呼びに来た七梨太助を最上の微笑みと最高の声で迎える事が出来た。
 森の恵みを一身に受け、清らかな空気を纏い、木々の葉が選んだ黄金の陽光に包まれたキリュウの姿は、シャオ一筋を自称する七梨太助すら息を呑む美しさであった。それは、彼女が命を育む大地の精霊である事を何よりも雄弁に語っている光景であり、さながら神話のワンシーンだと、彼女の主はぼんやりとそう感じていた。
 この少女も、自分の愛している月の精霊と同じ存在なのだ………その事を太助は久しく思い出した。目の前の陽光を纏い、大地の恵みを一身に受けている彼女こそ、母なる大地の精霊。故に、その恩寵を最も強く受ける………
 寝起きのキリュウに水を用意するべく、ブナの巨木は体内を流れる水分を枝で作った柄杓に集め、思い瞼をこすりながら彼女はそれを飲み干す。市販されている水とは違う、命を育み、潤す水を森は彼女に惜しげも無く与えるのだ。
「主殿?」
 寝起きで潤んだ瞳に自分の姿を映す森の娘に、太助はつい視線を逸らしてしまう。いつもと違う彼女の寝起き姿は、少年にとって酷く魅力的であり、鼻孔をくすぐる微かな甘い匂いに背徳感を憶えるのだった。  甘い匂いが誘う背徳感に対して、刹那の間、脳裏に月の精霊の姿が浮かび、太助は背徳感を振り払うと、食事だと告げ、返事を聞く前にその場から去った。自分でも、口調が硬かったと思いながら………
(?主殿らしくない………)
 キリュウがそう感じていたとき、彼女の意識は既に森から離れていた。もし、彼女が続けて森に意識を傾けていたなら、瞬時に太助へ向けられた森の殺意に気付いただろう。
 しかし、キリュウが再び森に意識を向けた頃には、すでに森はいつもの平静さで大地の精霊である少女を迎えているのだった。
 昼食はといえば、折角だから庭で、というシャオの意見に太助が同じ、屋敷の主である翔子がそれを承認して、彼女とシャオの二人で作ったものになった。
 正直、キリュウはその話を聞いた直後、翔子の料理というものに若干の懸念を憶えていたが、いざ眼にしたものといえば、かなりまともなメニューだった事に驚いたものだった。そして、それは太助も同じだったらしく、翔子の作ったというミートパイをルーアンが口にし、以後は無言でそれを口にかっ込む姿を見てからは安心して皿に取っていた。
 昼食の最中に話題となった事だが、翔子は意外に料理その他の家事をこなせるらしく、シャオが彼女の家に外泊した時などは彼女が料理を作っているとの事である。
 しかも、シャオはその料理をいたく気に入っているらしく、幾つかの料理(中華以外の)は、翔子から習ったというのだからキリュウはその事を聞いたとき、翔子を尊敬の眼差しで見た。かなり本気で。
(イザというときの為に私も習っておくかな………)
 がつがつと、という形容が相応しい慶幸日天の姿を生暖かい眼差しで見つめながら、キリュウはそんな事をついつい考えてしまう。
 以前、太助が行方不明になったとき、シャオが翔子の家に閉じこもって彼女が七梨家に残された頃の食生活は豊かとは言えない代物だったため、その案は微妙に正解のような気がすると、キリュウはかなり真剣に悩むのだった。
(ふ………む………?)
 目の前で明るい笑顔を見せるシャオにキリュウは奇妙な感覚を憶え、暫くしてからそれがシャオの笑顔なのだと気付く。以前の、太助と出会う以前のシャオは自分の感情で笑顔になる事は無く、全て主を安心させる為に作った表情であった。それが、太助の代になってから自分の感情で笑える様になっている。
 主に対する好感………それだけでなく、自然な感情からの表情が今のシャオにある。そうキリュウには思えるのだ。
(翔子殿………か………)
 シャオがその笑顔を向ける太助以外の人物、その姿を眺めながら、キリュウは妙な感触を憶えるのだった。  シャオの話す森での小さな発見。それを穏やかな微笑みを浮かべながら聞く翔子。以前から変わらない日常の光景だったその絵に、キリュウは自分が感じる違和感の正体が何なのかをすぐさま思いつく事が出来なかったが、やがて「ああ、シャオ殿は甘えられる人を見つけたのか………」と、その違和感に気付き、柔らかい微笑みを浮かべる。
 ごく普通の少女の様に振舞う今のシャオは、何だかとても良い事だとキリュウには思えるのだった。
 キリュウたち精霊は、普通だと(彼女の知る限りでは)特定の役目を与えられ、その役目を最優先する傾向が強く、彼女自身がそうである様に、他者に甘えることのできない(他者と打ち解けられない)内向的な性格を持っているのが殆どである。
 それは、役目を担う上での必要な………
(では、誰がそれを決めた?)
 思考の狭間に割り込んできた言葉に、キリュウははっと顔を上げて正面の翔子に眼を向ける。そこには、シャオに良く似た深い蒼の瞳が彼女を映しており、表情自体は穏やかなものに見えた。
 しかし、その蒼は何処までも冷たく、綺麗で、高く、何処までも無関心な蒼。以前、キリュウがテレビで見た、この世の全てを含んでなお輝く、この惑星(ほし)のそれの様に………
 彼女は言葉を発していない。キリュウは一瞬でその事を理解できた。そんな冷たい言葉にシャオが反応しないハズが無い。
 しかし、シャオの様子は変わらず、翔子へ彼女にとっての発見を熱心に語り、翔子はそんなシャオに視線を戻してシャオの話に耳を傾けている。
 慈しむ………そんな言葉の似合う眼差しを向ける翔子の蒼は、先ほどまでと異なり、シャオのそれと同じ蒼。優しく、清らかで、温かい。
 怖い………キリュウが彼女に抱いた感情はそれだった。
 大地の精霊万難地天。大地の恵みによる育成を司り、その力は同じ精霊であるシャオやルーアンに劣る事は無く、人が恐れる怪異では害を及ぼす事は不可能である。
 【死なない事】から来る余裕………それが、キリュウを始めとする精霊たちの心理根底に宿る論理だった。それゆえ、シャオは己の命より主を優先し、ルーアンもそれに並ぶ。そして、キリュウも自らの力から主と一線を引く事が出来るのだ。
 しかし、キリュウは初めて【死の恐怖】を翔子に感じた。数千年に及ぶ彼女の生。その中にあった数十年程度の【生きた時間】には存在し得なかった感情に、キリュウは自分の判断力が停止しているのをぼんやりと感じるだけしかできなかった。
(この者は………)
 キリュウの眼に映る人の姿をしたモノ。それは顔が無く、その言葉だけでシャオを自由に操る糸を紡ぐ。
 息を呑み、音を立てて席を立つキリュウ。その音に驚いたシャオたちの顔を見る余裕など彼女には無かった。

 適当な言い訳を述べ、キリュウが恐怖心から逃げた先は彼女の領域である森。
 キリュウの領域であり、彼女が心安らげる世界である森。そこにある清浄な空気は、あの無貌の化物が放つ邪気を払ってくれる筈であった。
 足早に森へと逃げ込んだキリュウは、息切れと共に自らが望んだ清浄な空気を胸一杯に吸い込もうとし、代わりに喉を通ってきた空気に思わず咽かえる。それは、清浄とは云い難い、濁った重い空気であり、キリュウはその空気に耐えきれず、その場に蹲ってしまう。
 ほんの数十分前まで彼女の領域だったこの森は、最早その取り繕った表情を捨て去り、キリュウに自分の力を見せつける場所になっていた。
 最盛期を過ぎた陽光が木々の葉から地面を照らし出し、そこに広がる無数の蟲と腐敗の世界をありありとキリュウに見せつける。
 無数の蟻が地面を這い、獲物である弱った生命を求めてさ迷い、愛らしい子リスの骸を蛆虫が食い散らかす。
 腐葉土に成り切れない落ち葉は悪臭を放ち、それに群がる蟻の群生。
 名前すら知らない鳥の鳴き声はお世辞にも囀りとは云い難く、まるで自分を嘲笑っている様だ、とキリュウは感じた。
 ここは危険だ………そう自分が理解しているのに反し、キリュウの持つ大地の精霊としての力はこの事態に対して何の反応も示さなかった。普段なら巨大化・縮小を行える彼女の力がまるで働かないのだった。
 ここが何処かは、普段なら巨大化させた樹で確認も出来ただろうし、辺りの小動物に聞いて解決できた。しかし、この場所ではそんな彼女の力が一切通じない。否、正しくは、全ての存在が彼女の要請を無視しているのだ。
 対象に対する要請と力の使役。それは、人が魔法と呼ぶ技術の一種であり、キリュウの生まれた中国においての魔法の法則である。
 彼女の「声」は人のそれを遥かに上回る影響力を対象物に持ち、物体の拡大・縮小を「言葉」で叶える事が出来るというのが彼女の力であった。それを無力化する存在(及び力)なぞ、キリュウは聞いた事がなかった。
(或いはシャオ殿か老人なら………)
 道術・方術といった、所謂仙術と呼ばれる魔法が存在している事はキリュウも知っていたが、生憎と彼女はそれらと戦ったりした事は無い。道士や巫士といった輩と戦うのは、むしろシャオとルーアンの方である。
 キリュウの役目は主を鍛える事であり、戦闘というモノを彼女が直で体験した事は殆ど無いのだ。
「ああ、お前さんはそうだったんだねぇ」
 不意に掛けられた声にキリュウは、込み上げて来る吐き気を堪えながら声のする方向へ顔を向けた。
 盛りを過ぎた暗い陽光は木々の葉にその力を衰退させられ、声の主は木々が生み出す闇の中からキリュウのことを見ていた。キリュウは、自分を見つめる、その蒼い瞳を綺麗だな、とぼんやりと考えていた。
 森の木々は、大地の精霊という自分たちを繁栄させる最高の滋養を目の前にして、突如現れたモノにどう対処するか迷っていた。目前のモノが何にしろ、大地の精霊は、彼ら樹木にとって数百年に一度のご馳走。それを逃したくはないようだ。
 邪魔者は削除する………それが、森という生態系を支配する木々の意思であり、彼らは自分たちに従わない生物を排除してきた。その手腕を今、彼らは急速に行おうとしていた。
 急速に目標周囲の酸素濃度を上げ、対象を酸素酔いに陥らせ、弱った所を体内に封印してある数世紀前の病原菌を吐き出せば人間なぞ脆いもの………それが木々のやり方だった。
 危険だ………そう叫ぼうとしたキリュウだが、その声は恐怖に凍りついた喉から出る事はなかった。蒼い瞳の持ち主が軽く手を振ると、彼女の周囲から暗褐色の物がにじみ出し、それが周囲の木々に触れると、木々はどす黒く変色を始め、メキメキと音を立てながら倒壊するのだった。
 キリュウには、先ほどまでの木々の自信が打ち砕かれ、恐怖に怯えている様がひしひしと感じられた。
 暗褐色の物質は、たちまちの内に木々を食い尽くし、木々がその断末魔を上げる度にキリュウはきつく目を閉じ、その声を聞くまいと耳を閉ざす事しか出来なかった。 「ヤ・ナ・カディシュトゥ・ニルグリ………ステルプスナクナー・ニョグサ………クルナク・フレゲトール………」
 暗褐色の物質が周囲の木々をひたすら朽ち果てさせる中、蒼い瞳の彼女がそう唱えると、暗褐色のそれは、液体と固体の中間にあるその身体を細かく振えさせ、恨みがましく「きぃーきぃー」と音を発しながら再び地面へと潜っていく。
 怯え、意識が朦朧としているキリュウに、蒼い瞳の持ち主はそっと近寄り、思いの外優しい眼差しを彼女に向け、震えるキリュウの頬をそっと撫でながら「さて………いらない事は忘れておくれ………」と優しい口調で囁くのだった。




【あとがき】

 ニョグサです!。ついでに黒き森デス!
 さ……て、この噺はキリュウと這い寄る混沌の違いを出すためのものです。
 両者は共に大地の精霊ではありますが、キリュウは大地の恵みを司り、這い寄る混沌は大地の(人間には理解し得ない)生態系を司るという事で。
 あ……そうそう。「黄衣の王」は、次で「銀の鍵」編に移行します。ええ、「銀の鍵」デス(w)。別に「カダス編」とも云いますが………(w)