銀の鍵 序章でない始まり

銀の鍵 序章でない始まり




 果ての無い深淵の暗さを持つ空と、その暗さ故に煌煌と輝く星達。そして、それらを従えて輝く月の下、【彼女】はたった一人で来るべき者を待っていた。
 荘厳にして重厚な造りの宮殿。そこの主である【彼女】は天窓から降り注ぐ月の光を吸収する深淵の色をした衣をまとい、唯一人で音一つ無いこの冷たい玉座で来るべき者を待ち続けていた。
 自分という存在で最後となる運命のそれには微塵の感傷も感じない。
 運命が定めた自分の最後によって失われる事、そして訪れる事に思いを馳せるとき、【彼女】はいつも思う。
 自分が残した血を継ぐ子供達が辿るだろう慈愛と残虐、狂気と正気。そして、生きて行く事での穢れと其れを凌ぐ輝きを。
 自分達の神婚によって生じた恵みが終わるのはそう遠くない。
 約束された清らかな輝きは過ぎ去り、子供達は自らの足で歩かねばならないのだから。
「……それが、穢れた終焉への階段だとしても」
 例え、それが穢れていようとも、そこを自らの意思で進む者は輝くのだから……
 【彼女】の紡ぎ出した言葉と同時に玉座の空気は微かに動き、【彼女】の知る来るべき者の来訪を告げる。
「……終焉なぞ……認めない……」
 来るべき者……その少年はそう言い放つ。
 否、少年と言うには躊躇われる雰囲気を彼は持っていた。
 それは、彼の纏っているのが鎧であるという事以前のモノであり、彼の存在感とでも言うべき質である。
 朱色の鎧を纏っていながらも足音一つ無く、ただ微かに空気を動かすだけで移動する技量を持った人間。
 敵を打ち倒す技術が十二分な領域に到達した事を証明する歩法。
 道でなく、術である武。少年は、それを持つ者。
「……今更……失う事など……認められない……掴んだ権力……栄光……富……一度手にした【それ】を失う事は……」
 噛み締めるように少年が放つ言葉。
「真の【死】だ」
 言葉と共に跳ねる少年。
 【彼女】との間合いを詰め、華奢な【彼女】へ向けて体重とスピードを乗せた蹴りを繰り出す。
「……失う事の怖さ……それは有って当然なのではないですか?」
 少年の蹴りが不可視の何かに遮られ、変わらず玉座に座している【彼女】は静かに少年へと問い掛ける。
「……それは貴方の台詞ではない……貴方がその言葉を放っても意味を成さない……」
 塁壁陣……と小さくうめいてから少年はそう言い切り、後ろへと跳ねる。
「貴方は人でないのだから」
 着地と同時に少年の繰り出した攻撃は閃光の速さを持った手刀。
 少年の繰り出す手刀のモーションに僅かに遅れて音が、そして空気の揺れが玉座に響く。
 微かに【彼女】の長い黒髪が揺れ、白く美しい【彼女】の頬を一筋の血が伝う。
 同時に、少年の前後左右に幾つかの黒い球体が音を立てて転がる。
「……塁壁陣……折威……そんな宝貝は私には効かない……」
 酷く冷静で厳粛な雰囲気を持った少年の言葉。今の彼の姿を見た者は「武神」という存在を確信するだろう。
「貴方に我々人類が課した義務……それを怠る事は許されない」
 少年の鋭く冷たい鋼の視線を受けて尚、穏やかに在る【彼女】という存在。
「死して我ら人類に富を齎せ……女神……」
 少年はゆっくりと腰に差した剣「応竜」を抜き、女神へと構える。



「女神の消滅による玄牝の加護の消失……予想していた事とはいえ、凄まじい物だな」
 嘲笑の笑みを浮かべた男の言葉に、彼に従う者達は苦笑を漏らす。
 小高い丘の上から見下ろせる大地には【彼女】の死によって齎された恵みを貪る人間達の姿が一望に出来た。
 【彼女】の死より5000年。この大陸の人類は【彼女】の死が齎した恵みによって生かされ、繁栄を甘受して来た。
 木々は人類にその果実を進んで差し出し、陸の獣は全て人間の意思に従った。海の魚は水面に浸した手に自ら乗り、空の鳥は望むままに降りてきた。
 河は澄み、雨は正しく地に降り注ぎ、日は大地と人を暖めた。
 しかし、【彼女】の恵みは最早枯れ果て、木々は人の為に果実を産み出さず、陸の獣は人を追い立て、海の魚は人の手より逃げた。
 河は荒れ狂い、濁り、雨は人の営みを洗い流し、日は人を焼いた。
「……我々は滅ぶ……」
 女神を殺し、人類に繁栄を齎した男は静かに言い放つ。
 残り少ない天地の気を掻き集め、増殖する食料「視肉」、同じく気によって制御され、姿と量を自在に変える土「息土」。
 彼が作り、自らを滅ぼすべく辺境民族に与えたこの宝貝も、およそ残り1000年でその寿命を終える。
 女神の恵みが失われた今、自らの不安によって支配者の血を求める人間達。
 高い教養、高い文明、高い文化を持つ人間ほど容易く獣に返る。
 神殺しの業を背負い、守った者達が向ける刃。
「神罰……か?」
 堪らなく可笑しい。
 繁栄を与え、ひたすらに与え、溢れるばかりに与えて滅ぼす避けられない謀。
 人で無い、「神」だからこそ出来る、人がどれだけ富もうとも、人がどれだけ苦しもうとも、人がどれだけ死のうとも気にも留めない、人造でない「真なる神」だからこそ出来る攻撃。
 黄帝を名乗る青年。
 民衆の為に自分を滅ぼそうとする彼の澄んだ瞳にあの女神は映っているのだろうか?
 自分が女神に選ばれ、その意志のままに動かされている事に気付かないからの清らかさ。
 守られ、導かれた清らかな者。
 女神の残した血。
 恵みではなく、その保護が成された選ばれた者。
 この数百年、彼らを生贄に保たれてきた平和への当然の反乱。
「……愚かな……」
 口にするものの、その手の愚かさを彼は嫌いではなかった。
 元は彼の剣であった「応竜」を手に、民衆を率いて王宮へ進軍する少年の姿は中々の見物ですらある。
 かつての彼には、従う民衆はおらず、ただ彼が奪い取る恵みを待っていた。
「我々の富は、栄光は、生態系の支配者の権力は、我々人以外には渡さぬよ……女神……」



「?どうなされた?呂尚殿?」
 彼は、つかの間の過去との会合からその声で引き戻される。
 あれから、幾度と無く彼は生まれ変わり、彼に背負わされた業をこなして来た。
 即ち、女神の血族を屠り、地上に恵みを齎すという仕事を。
 黄帝の時代は視肉で人間を守り、夏の時代にその血を辺境に保護して増やし、天地に捧げる生贄として使ってきた。
 夏の人間に女神の血が現れると夏を滅ぼし、殷を作った。
 そして、この殷は今までで最も出来が良かった。
 その血の果てに、あの女神に最も近いモノを作り上げたのだから。
 否、あの女神が残したモノを再現したのだから………
「嬉しいのだよ?姫旦殿?」
「嬉しい?」
「足りなかったモノが満たされる。乾いたモノが潤される。飢えたモノが満たされる。これが嬉しくなくて、何かな?うん、嬉しい。非常に嬉しい。成されなかった事が、正しい事が、絶えてはいけない事が、在り続けるべき事が蘇る、いや、在り続ける様に、絶えないように、正しく在る様に、成される様に出来ることが、かな?」
 低い、擦れた音とでも形容されるべき声で彼は笑い、干からびた眼差しで彼方の美しい都へ視線を向ける。
「あの時はアレが育っていなかった。いまは十分だ。十分過ぎる。3つも予備が出来たほどだ。いいぞいいぞ。数は多いほど良い。多ければ多いほど見つけ易い」
 干乾び、歳月を経ても失われない活力。
 その自然でない雰囲気に圧されつつ、姫旦と呼ばれた人物は黙って呂尚と呼んだソレを見つめていた。
「ああ、名を付けないとな………ふむ………人を守る為に天を支え
る………途切れる事無く………輪の様に………支天輪など良いな。うん。天を支える柱は絶やしてはいかん。輪の様に終わりが無く、始まりもないのが………」
 自らが愛用していた呪具である鏡を玉で出来た縁から剥し、八角形をした輪を玩びながら楽しげに呟く老人の姿に姫旦は薄ら寒いモノを感じていた。
 この戦の後、姫旦の国周は各国の盟主になる。
 この老人が見せた外交手腕によって、事の規模に反してさしたる流血も無く。
 しかし、この老人が時折見せる狂気に気付いている者が周にどれほどいるだろう?
(この老人は殷の血を求めている)
 姫旦は漠然とだがそう感じていた。
「尽きる事無く、天地の如く、ああ、あの女神が住む月に因んで守護月天と名付けよう」
 老人の狂気を含む声に、姫旦は腰に吊るした剣「応竜」の柄を知らずに握り締めていた。



 老人は鏡に映る光景を満足げに見ていた。
 女神の血を濃く引く2人の生贄。
 守護月天、万難地天。
(もう一つには逃げられたが……)
 2体は餌であり、罠であり、鈴である。
 天から栄華を引き出す為の生贄、【女神】を【天子】を発見・保護する為の。
(最早、血が足りぬのだ……天との交渉に……)
 老人の貌に刻まれた苦悩と後悔の皺がより深みを増したとき、老人の耳に入ってきたのは勇ましい掛け声と悲鳴だった。
 老人の城の外には守護月天製作に反対した姫旦の軍が展開していた。
「……来たか……周公……」
 苦笑交じりに呟く老人の声には狂気が無く、安堵さえ感じさせる。
 彼が来るのは解っていた。
 否、彼でなくとも、自分が倒される事は【決まっている】のだから。
「神殺し、故に」
 鏡に手をかざし、映る光景を消すと、背筋をしっかりと伸ばして窓へと視線を向ける。
 老人の城は、彼が【女神】から得た力と術で防御されており、姫旦の力と軍でも敷地内に一歩たりとも入る事は出来ない。
「さて?貴殿がそこまで背負う必要も無かったのだがな」
 視線を移したと同時に耳に入ってきた凛とした女の声に、老人は素早く声の主を捜し当て、驚愕の表情を浮かべた。
 そこにいたのは艶やかで、華やかで、それでも暗い影を見せない美しい女。
 老人のいるこの場所に張り巡らされた結界は【女神】の残した力の一部を使ったものであり、老人自身が張ったものである。
 その力はあらゆる精霊・妖魔を寄せ付けず、例え入ったとしても霊圧で動ける物ではない。
「!!!!貴様!!!古の太陽神か!!!!」
「ふむ……?我が名を知る者か……過去しか見様としない、止まった者よ……」
 老人の声に然したる感慨も受けず、その女、古の太陽神は言い放つ。
「この星のこの次元に来たのは2000年ぶりではあるが……不様な……いい加減その醜態を正してはどうだ?」
 言葉に続いて、太陽神の指先に全ての色に輝く焔が現れる。
 全ての色が鮮烈に輝く焔は、老人のいるこの場所に張り巡らされた死せる【女神】の気を吹き飛ばし、その力に老人は吹き飛ばされ、呻き声を挙げた。
「我が唯一のMy Lordの願い故、此方側に来たが……ふむ……」
 床に這いつくばり、恐怖に喘ぐ老人に一瞥すら呉れずに遠い何かを見つめる太陽神。
「……それなりの収穫はアリ、という事か……この次元で、これより暫しの時の後に約束は果たそうぞ、水藍よ……それが、我にできるこの世界の精一杯の干渉だ……」
 言い終えると同時に、太陽神が手を一振りすると、金剛石の輝きを持つ焔が爆発的に膨らみ、凄まじい速度で広がる。
「いいいい、イカン!」
 老人はその焔に本能的な恐怖を感じ、瞬間的に金の気を掻き集めて近くの土壁ヘぶつけ、砕いた所へ駆け出す。
「水藍よ!約束は此方の我と同じ主に仕えたときに果たそうぞ!」
 光の中、声だけが老人の城に響き渡り、その瞬間に老人が君臨していた城は消滅した。
 その後に一握りにもならない灰を残して。
「その時は、貴方とも再会しましょう。My Lord……」
 古の太陽神は光の中、次元を越えるほんの一瞬に姫旦へと小さく囁いた。





                  【あとがき】

 きょーあくごーじゃす太陽神サマご登場〜。
 そのお力はクトゥグア様クラスで、本気出されると黄衣の王の娘、翔子さんもやばし。
 仙人が扱える五行の法則なんぞ指先一つで突き破るトンでもない御方です。
 コップの水なんぞ、太陽に触れる前に蒸発させられるのです。
 ついでにラスボス登場!
 ラスボス様は、中国で最初に武術を使ったとされる御方でゴザイマス!
 ついでに金属もね。
 まぁ、守護月天誕生の回です。
 老人は、コレ以後も歴史の中に登場します。
 災厄の時、それを起こす神を静める為に捧げられる生贄、それは心清らかな者。
 古代中国の価値観からすれば老人は正しかったのですが……