CrossRoad






 月の光が【彼】の身体に降り注ぐ中、【彼】は重い足取りで回廊を歩み続けていた。
 1500以上の歴史を誇る一族。
 その権威と力が集う寝殿造りの屋敷。
 渇いた木材が歳月に磨かれ、敷地内に敷き詰められた玉砂利は月明かりを白く反射する。
 幾度と無く歩んだこの回廊は、その度に【彼】を苛む。
 一族の過去より来る想い。それがこの回廊に潜み、【彼】を苛むのだ。
 この回廊を唯一、帯剣して通れる位にある【彼】。
 だが、今の彼は本来なら鞘に納まっているその剣を抜き身のまま手にしていた。
(……春雷……神々の軍が鳴らす太鼓の音色……)
 5月の末とはいえ、この季節に珍しい雷の音が遠くで鳴り響く。
 それは、これから【彼】が行おうとする事に対する【神】の警告だろうか……
(或いは、祝福……か……?)
 回廊を抜け、四方を漆喰の壁で囲まれ、白い玉砂利を敷き詰めたた広大な空間に辿りついたとき、【彼】は遥か彼方で鳴り響く雷の音色にそう思った。
(……雷……五行において木行に属する力……)
 月光に照らされ、純白に輝く敷地……半年前から用意されていた【聖地】へ、【彼】は足を踏み入れる。
 キシキシと鳴る玉砂利の上を進みながら、【彼】の目は目前に置かれた祭壇を見ていた。
 五行思想において、「木」を抑える「火」の色である「朱」で統一された祭壇。
 「木」を倒せる「金」の色たる「白」で造られた空間。
(……雷帝……否、木帝よ……)
 月の光を浴び、その輝きを纏って【聖地】を進む【彼】。
(……君を殺すにあたり……許しは請わない……)
 永遠かとすら思える時間。
 祭壇に【在る】存在。それこそ、【彼】の目的。
 そして、【彼】が殺すべき存在。
 即ち、【敵】なのだ。
(……我を呪え……君にはその権利がある……残されたただ一つの……)
 この距離と時間が真実に永遠であれば……
 脳裏を過る考えに、【彼】は月光に輝く剣を構えて答える。
(我が愛しき娘よ……)
 歩みの果てに辿りついた祭壇。
 そこは、60体を越すあらゆる生き物の首を捧げた「朱」の祭壇だった。
(……君の罪は……)
 白く輝く剣。それは、【彼女】を殺す為の道具。
 【彼】の娘を殺す為に用意された……
(……雷帝として生まれた事だ……)
 眼下で父親を見上げる赤ん坊。
(……君1人だけの惨劇にはしない……我も続こう……)
 血に浸かり、それでも尚、際立つ蒼い瞳。
(……全てを奪う、この我を憎め……そして、魂を破滅させよ……)
 踵まで血に染め、【彼】は剣を上段に構える。
(……ジョカに成れなかった、優しき女神【ティアマト】よ……)
「その剣、振り下ろされるおつもりか?」
 剣を構えた直後、背後からかけられた声。
 それは、【彼】の良く知る声だった。
「実の娘を殺す……それも、産まれたばかりの……正気の沙汰とは思えませんな」
「……足らぬのだ……ティアマトでは……な……」
 構えのまま、声に、実の弟に答える【彼】。
「今なら、まだ間に合う……神を、われら人類を守護する強い神を勧請するのに……」
「……七梨家もありましょう……」
「足らぬ……かの弱き心では……な……」
 言葉を交わす間。その間に、【彼】は弟が動いているのを感じていた。
 僅かに顔を弟へ……【敵を守るモノ】へと向ける。
「……確かに、七梨家は弱いでしょう……しかし、やがてその弱さは輝きへと変わるでしょう……」
「待てぬ」
「……足らぬ物は補い合えば良い……そうは考えられませんか?」
 弟の言葉に答えず、【彼】は剣を娘へと振り下ろす。
「私はそう考えます……優しさと弱さは必ず輝きに成ると」
 【彼】の剣。
 娘を殺す為に造られた刃を己の右腕で受け止め、弟はそう【彼】に言い放つ。
「退け……当主として命ず……」
 食い込む刃に力を込め、言い放つ【彼】。
「聞けませぬ……父親と成った兄の言葉でない故……」
 言葉と同時に、膝を【彼】の鳩尾へと叩き付ける弟。
 【彼】はまともな防御すらせず、直撃を受けて後方へ吹き飛ぶ。
 兄の落とした剣を拾い、それを手に弟は兄へ向き直る。
「……反逆……か?」
 兄の問い掛けに、弟は答えない。
「反逆に対する罰は……死だ……」
 倒れた身体のまま、そう言って空を切る【彼】の右手。
 右手の軌道に沿って、「無」が出現し、それは急激に膨れ上がりはじめる。
「例え、死であろうとも……」
 膨れ上がり、万物を消滅させる刃と成った「無」を剣の一閃で弾き、【彼】の弟は真っ直ぐに兄へと視線を向ける。
「……信じた女性の産んだ子を……私は守ります」
 起ち上がり、無数の「無」を産み出して攻撃を仕掛けてくる兄。
 その攻撃を全て弾き、その身で受け止め、背後の赤ん坊に一切の傷を負わせまいとする弟。
「お前の防御は……それが何時まで維持できる?」
 兄の言葉に、ただ微笑を浮かべる弟。
(何を……考えている?)
 弟の実力を知る【彼】だからこそ、弟の取る不可解な行動に戸惑いを感じていた。
 【彼】と同質の力を有する弟ならば、依り効率の良い方法での防御があるはず。
 しかし、弟の取る行動は全て、超常の力を一切使わない戦い方である。
(同情でも求めるのか?……ムダな事を……)
 掌に力を込め、今までの攻撃で最も巨大な「無」を発生させ、【彼】は一気に解き放つ。
(この大きさの「無」を弾く事は不可能……如何出る?)
 【彼】の意思には、最早娘の事は無く、まして戦っている相手が弟という意識も無かった。
 ただ、己の力を全て暴力に変えて破壊を行える。その事が楽しかったのだ。
 色の無い「無」が祭壇を飲み込み、消失して行く最中、それが【彼】の視界に入った。
(避け……ない……?)
 消失し、地面が剥き出しに抉れる中、屹立する弟の姿。
(あの子も……無傷なのか!?)
 弟の背後に存在する微かな氣。
 その間違え様も無い質に【彼】はうろたえると同時に、弟の用いた手段を悟った。
(残留思念!死後も想いのみで存在するか!?)
 「無」の創り出した破壊が収まって行くにつれ、その姿が消滅し始める弟を【彼】は呆然と眺めるしかなかった。
「例え、我が肉体は朽ちようとも……私はこの子を守りましょう……あらゆる存在、運命からすらも……」
 それが、私の出来るあの人へのただ一つの事なのですから……
 そう、弟の静かな瞳は語っていた。
(2度目……だな……翔……お前に助けられたのは……)
 消滅した弟、その身体の輪郭の形に残った大地。
 そこで静かに自分を見上げる娘の身体をそっと抱き上げ、【彼】は煌煌と輝く月を見上げた。
 静かに、まるで弟の死など無かったかの様に輝く月。
 自分が娘を殺すという事態にも無関心に清廉と輝くだけの月。
「……我が弟よ……翔よ……お前に誓う……人の世を存続させると……我等を見下ろして嘲笑うだけの存在には明渡さない事を……」